「無から有を生み出す」なんてありえるのか

表現者について、大仰な誤解が蔓延しているように思う。

小説でも絵画でも漫画でも脚本でも、立体オブジェでも商業・工業デザインでも。

 

表現者は『無から有を生み出す』」。

 

いや違うやろ。

なんかあんねん、素材の欠片が。

どんなものにでも。

 

その欠片は、台所のまな板の上のタケノコかもしれないし、

友だちが問わず語りに語ったエピソードかもしれないし、

サンダルの中で足裏を虐めた砂粒かもしれないし、


かつて見た複数の未来都市予想図のまぜこぜかもしれないし、

三次元的にあらわされたグリーン関数の最大値図かもしれない。

 

それをどう料理するかは

表現者の「間」「空間」感覚や、「リズム」「動き」や

「美」や「愛らしさ」などをどこに感じ、求めるか、の感覚にかかっている。

大雑把か緻密か、大胆か臆病か、ものぐさか偏執的か、

そうした創り手の性格、ときに矛盾する性格も込みで、

それらの感覚を「センス」と言う。 と、私は考えている。

 

だから、何をどう表現するか創りあげるかは『無から有を生み出す』などという神秘的なもの、アプリオリなものではない。まず事象事物があり、そこからイメージを導き出す「センス」と創りあげる「時間・体力・構築力」があるだけだ。

とらえたイメージの増幅や減衰も、行うのは「センス」だ。

 

『無から有を生み出す』という言葉を、いつどこの誰が最初に発したのか知らないが、この言葉を比喩ではなく、本気でそういう造物主的な表現者、能力者がいると信じる人たちがまだまだ多い。

それはオカルトと変わりがなくて、「根拠や依拠するところなくイメージが湧いて出る天才」幻想に結びつく。

万能感希求の裏返しであり、かつて「神」なるものを創出したこの幻想の怖いところは、幻想をビジネスあるいは統治に利用しようと考える人たちに、幻想を信じる人たちが容易に操作されてしまうことにある。

表現者の表現物評価で言えば、関係界隈の力学的上位者の高評価が「検証されることなく」そのまま界隈や世間の評価になり、金を産むツールとして神輿に担がれ、かついだ神輿の高さでまた評価が上がっていく。

そのぶん、いいものを有しながら力学的上位者に評価されなかった表現物が、一顧だにされることなく消えていくことがありうる。

検証のうえ、担がれるのならいい。それはまっとうな評価だ。

検証がおざなりになるのは、『無から有を生み出す』幻想をホントのコトのように生かしておくからじゃないか。そう思った。